張継「楓橋夜泊」
月落烏啼霜滿天、 江楓漁火對愁眠。
姑蘇城外寒山寺、夜半鐘聲到客船。
寒山寺は江戸時代より約三八〇年の由緒を持つ禅寺ですが、その歴史は社会情勢に大きな影響を受け続けました。
しかしながら、檀信徒皆様のご尽力を頂きながら苦難を乗り越え、現在に至ります。
開山瑞南卜兆禅師が初代膳所藩主・石川忠総公に迎えられ、一寺を創建しました。創建の地・琵琶湖畔を望む膳所は「楓橋夜泊」の詩や観光地として有名な蘇州・寒山寺の風景とよく似ていたため、「寒山寺」と名付けられたということです。
寛永11年(1634年)頃開創後まもなく、石川家の転封により大坂城下太融寺を中心とした西寺町、現在の大阪市北区兎我野町に移転しました。移転地は、太閤・豊臣秀吉の側室淀殿が親しんだ別邸、菜種御殿の跡地と伝わります。
慶安3年(1650年)頃大阪移転後、歴代住職は本堂などの伽藍整備や檀信徒教化に力を尽くしました。しかしながら、江戸末期、天保八(一八三七)年、元大阪与力の大塩平八郎が幕府の圧政に反旗を翻した、世に言う「大塩平八郎の乱」により大阪は大火に見舞われました。寒山寺もそのあおりを受け、諸堂を焼失してしまいます。
天保8年(1837年)頃寒山寺の鐘は、中国の寒山寺と同じく名鐘として大坂城下では知らない人がいない程有名でした。それは、『曽根崎心中』などの浄瑠璃で、重要な場面に時を告げる鐘として登場する程です。寒山寺の鐘は長らく親しまれていましたが、第二次世界大戦の際、供出されて、現存していません。
第二次世界大戦中大塩平八郎の乱で焼失した寒山寺は、歴代住職が本堂を再建するなど、その復興に尽力しました。しかしながら、第二次世界大戦中、大阪の大空襲により、本堂などを焼失してしまうこととなります。なお、江戸時代から伝わる開山像や多くの禅画墨蹟などは疎開させていたため、奇跡的に難を逃れました。
第二次世界大戦中大戦後、焼け野原となった大阪でしたが、徐々に復興を果たします。やがて大阪万博が企画され、北摂地域と大阪市内を結ぶ交通の大動脈、新御堂筋が整備されることとなりました。その計画用地に寒山寺の境内が掛かり、寺地移動の要請を受けます。こうして、約五十年前、箕面の地に移転することとなりました。
昭和43年(1968年)頃箕面に移転して以降、先々代・先代住職により本堂の落慶・新書院の建立と寺観が整えられました。私が住職に就任して以降、寒山寺を利用して頂く方の利便性を図り、境内のバリアフリー化や永代供養墓の整備を行いました。これからも、檀信徒を始め、有縁無縁皆さまの心の拠り所となるべく、日々努めて参ります。
現在
寒山寺は、現在、大阪府箕面市に所在していますが、創建の由来は江州(滋賀県)
愚堂国師には、
張継「楓橋夜泊」
月落烏啼霜滿天、 江楓漁火對愁眠。
姑蘇城外寒山寺、夜半鐘聲到客船。
石山膳所に創建された寒山寺ですが、石川候の孫、
移転後は大坂城下、太融寺を中心とした西寺町に居を構えることとなります。寺地は太閤・豊臣秀吉の側室・淀殿が過ごした
一方、何故、
大阪市内に移転して以降、寒山寺は中国の寒山寺と同じく、時を告げる
このように社会環境や情勢の影響を受けながら江戸・明治・大正・昭和と大阪市内において、布教・教化に務めていました。昭和43(1968)年、大阪万博開催に際し、その都市計画によって新御堂筋の開通が企画されます。新御堂筋開通予定地に境内が掛かっていた寒山寺は、大阪市の寺地移動の要請を受け、先々代・第十五世純道和尚と先代・第十六世尚峻和尚によって、当処、箕面市に移転し、現在に至ります。